トップメッセージ 2024年9月
2024年9月2日 更新
日本野鳥の会 会長 上田恵介
私と山(1)
晴れ嫌いのライチョウ
暑い夏は涼しい高山にでも行って、山小屋でのんびり過ごしたい。雨なら小屋でのんびり読書三昧。天気の良い日はライチョウでも見に行こうかと思うが、じつは天気がいいとライチョウは滅多に出てきてくれない。ライチョウが最も恐れる天敵はイヌワシなどの猛禽類である。乗鞍岳は立山の室堂と並んで、日本で最もアクセスが楽で、ライチョウに出会えるスポットである。私もこれまでに何回かライチョウを見に乗鞍を訪ねたことがあるが、思い出してみると確かにいい天気の日にはライチョウに出会う確率が低い。
数年前のある秋晴れの日に乗鞍連山の大日岳に登った時のことである。快晴の青空をハチクマとチョウゲンボウが舞っていた。ハチクマは秋の渡りの個体だったのかもしれない。この日は乗鞍のライチョウの研究と保護の中心メンバーであるKさんに案内してもらったのだが、結局、1羽のライチョウにも出会うことができなかった。
朝日岳にてライチョウのオス
山への憧れ
私と山の関わりはじめはいつ頃だったろう。高校時代、北杜夫の『ドクトルマンボウ青春記』を読んだことがきっかけだったのではないかと思う。この本は若き北杜夫が旧制松本高校(現信州大学)の寮に入って過ごした青春の日々の物語である。旧制高校のバンカラ生活をおもしろおかしく描いた内容で、寮で馬鹿騒ぎをして、デカンショ節を歌い(デカルト、カント、ショウペンハウウェルね!)、山に登り、昆虫を追いかけて(彼は昆虫マニアであった)という自由奔放な学生生活が描かれている。北杜夫は『白きたおやかな嶺』など、これ以外にもいくつか山にまつわる小説を描いている。
だから志望の大学を決めるときには信州大学が第二志望だった。しかし信州大学の理学部には生物系の学科はなかったので、地学科に行って化石の研究でもしようと思っていたのである。けれど一期で受けた大阪府立大学に受かってしまったので、二期校の信州大学は受けなかった(この頃、国公立の大学は一期と二期とで受験日をずらして、受験生は志望校を2つ受けることができた)。もしも信州大学を受験して合格していれば、ほぼ確実に思誠寮に入寮し、そして山岳部に入部して、山三昧の学生生活を送っていたと思う。
だから山にはずっと憧れがあったが、新田次郎の小説を読んでいると、冬山や岩場で遭難する話ばっかり出てくるので、やっぱりこれはやばいなと思って山岳部からは距離をおいていた。入学した大阪府立大学には山岳部もワンゲル部もあったが、当時、山関係のサークルではシゴキ(下級生に訓練と称して、レンガやブロックを大量に担がせて歩かせる)が問題になっていたこともあって、山関係のクラブには入部せずに、農業問題研究会という地味な文化系サークルに入っていた。
山と仲間の思い出
しかしこの頃、若者の間で山はブームだった。私の入部した農業問題研究会(農問研=のうもんけん)は山とはまったく関係のないサークルだったが、同じ府立の短大のサークルと合ハイ(合同ハイキングね!)で、皆でテントを担いで、自炊の装備で比良山に登ったりしていた。クラスメイトには山岳部の友人もいたが、彼は岩を登っている時に落石で肩を骨折し、流石にこれ以上ここにいたら命が危ないと思ったのか、山はやめて、持っていたキスリング(横長のテント地のザック)を譲ってくれた。そのザックを背負って、夏は農問研のメンバーと槍ヶ岳に登ったりしていたものである。今思うに、私はわりと慎重な性格だったのだなと思う。
テント泊の道具を担ぎ登った比良登山
卒論に取り組んでいた4年生の時代、それから4年間(?)の修士の大学院での期間、山にはほとんど行かずに過ごしていた。大阪南港の野鳥を守る会の活動や、野鳥の会の大阪支部の活動が忙しかったからである。
府大から大阪市立大理学部に移る間の1年間、私は京都大学の昆虫学研究室に所属していた。巌俊一、久野英二、井上民二といった、日本の昆虫個体群生態学を牽引していた数理生物学者たちがいた研究室である。この時、研究室に出入りしていた学部2年生のM君(生態学者の加藤真さんと同級生)が山好きで「上田さん、山行きましょうよ」と誘われて行ったのが穂高である。M君の友人の京大探検部のメンバーも一緒であった。ヘルメットはあったほうがいいからと、彼が京大吉田寮から、学生運動の過激派の中核派かなんかのヘルメットを持ってきてくれた。上高地から涸沢を経て、前穂高の北尾根から奥穂高へ縦走し、奥穂の小屋の横でテントを張った。あとで聞くとかなり上級者コースだということだが、チムニーの登りもなんともなかったし、山はこんなものだとしか思わなかった。次の日はジャンダルムへの往復だったが、滝谷側に落ちると怖いなと思ったくらいで、馬の背も楽しく往復してきた。しかしM君はその翌年、冬の伯耆大山で滑落して亡くなった。生きていれば優秀な昆虫学者になっていただろうと思うととても残念な気持ちである。
北アルプス前穂高岳の北尾根にて
日本野鳥の会 理事長 遠藤孝一
我が町にコウノトリが飛来
栃木県市貝町で初めての観察
今年の6月、私の住む栃木県市貝町に2羽のコウノトリが飛来しました。県内では小山市の渡良瀬遊水地内に設置された巣塔で、毎年1つがいが繁殖しており、ここ数年2~3羽のヒナを巣立たせていますが、それ以外の地域でコウノトリが見られるのは稀で、もちろん市貝町では初めてです。
幸運にも、私は市貝町に飛来したコウノトリの最初と最後の観察者になりました。ことの始まりは、6月17日の朝。早朝から行なっていた里山での鳥類調査が終わって車で帰宅途中、視野の片隅に田んぼに佇む白と黒の大きな鳥のような姿がちらりと見えました。「ええ!まさか?」と思いつつ、引き返して近づくと、まさかのコウノトリでした。田んぼの中を歩きながら、くちばしを上手に使って、小さなオタマジャクシを盛んに食べています。よく見ると、脚環がついており、1羽は「J0662」、もう1羽は「J0645」とあります。その後、帰宅してインターネット(IPPM-OWSおよびコウノトリ市民科学のホームページ)で脚環番号を検索すると、2羽とも昨年生まれの1歳のオスで、J0662は広島県世羅町生まれ、J0645は兵庫県豊岡市生まれ、とわかりました。直近では、J0662は4月1日に鳥取県鳥取市で、J0645は5月31日に兵庫県加古川市で観察されており、どこで2羽が合流したかは不明ですが、ずいぶん遠くから来たことがわかりました。
水田で餌をとる2羽のコウノトリ
その後は、低い丘の上に立つ携帯電話の電波塔をねぐらに、その周辺の田んぼを中心におもに半径2~3kmの範囲で生活しており、7月12日の午後まで観察されました。この最後の観察も私でした。滞在中は、田んぼでオタマジャクシやドジョウを、畦や土手でカエルや昆虫などを食べていました。中干し(田植え後、一定の期間水を切って土壌を乾かすこと。土壌への酸素の供給、根や茎の健全な育成などに効果があり、収量・品質の向上につながる)で水がなくなり、また稲が成長して田んぼ一面を覆うようになる頃には、餌が捕りにくくなるので移動すると予想していましたが、やはりその通りとなりました。
サシバだけでなくコウノトリにも選ばれる町へ
市貝町では、人と自然が共生する「サシバの里づくり」を進めていますが、次にコウノトリが飛来する時までには、1年を通じて餌が捕れる水辺環境を整備し、「サシバだけでなく、コウノトリにも選ばれる町」を目指したいと思います。すでにコウノトリのファンになった農家の方々から、コウノトリを呼ぶための水張り休耕田(水田ビオトープ)などのアイデアが出ており、今後は個人的テーマとして行政や地域の皆さんと一緒に、コウノトリの生息に適した環境づくりにも取組んでいきます。
コウノトリが飛来した農村環境