トップメッセージ
2025年3月11日 更新
日本野鳥の会 会長 上田恵介
3.11に思う
また3月11日が巡ってきた。東日本大震災からもう14年目になるのかと、ちょっと感慨深い。
あの日、私は札幌の学会でシンポジウムに参加していた。午後2時46分、急に床がゆっくり左右に揺れ始めた。それは20秒くらい続いただろうか。本当はもっと短かったかもしれないが、人生で初めて経験する地面の大きな揺れであった。おそらく遠くで大きな地震があったらしいことはわかった。その時は関東で首都直下型地震かもしれないと思って、急いで外に出て公衆電話を探して家に電話をかけた(私は今でも携帯を持っていない)。幸い、電話はすぐ繋がり、地震が東北地方で起こったこと、家族は全員無事であることを確認した。だがその時は、東北地方をあの巨大な津波が襲うとは思ってもいなかった。
福島原発事故
海岸に立地していた福島第一原発はこの津波をもろに被り、全ての電源を喪失した。テレビのニュースで「福島第一原発、全電源喪失」というニュースが流れた時、冷却システムを失った原発で次に起こることが頭に浮かんだ。それは炉心のメルトダウン、そしてチェルノブイリのような原子炉爆発だと思った。私も科学者の端くれだから、それくらいのことは予想できた。
そして翌12日、1号機建屋が水素爆発を起こし、14日には3号機がこれも建屋が水素爆発し、ついで15日には4号機がこれも水素爆発し、2号機を含め大量の放射性物質を大気中に解き放つことになった。この放射性物質を含む雨が15日に原発の北西に位置した浪江町から飯舘村、西は秩父地方までの関東圏に降ったのである。
放射能の影響調査
人のいなくなった農家の庭に
ネコだけが……
どれくらいの放射性物質が撒き散らされたのか、そしてそれが動植物に与える影響はどれくらいあるのか、事故直後から国内外を問わず多くの研究者が現地調査に入った。みなほぼボランティアであった。それは研究者としての良心というものであろう。私たちも鳥に与える影響を調べようと、海外の研究者とチームを組んで現地入りした。
フランスから来た友人で鳥の研究者A. P. Mollerさんとアメリカの生態学者Tim Mousseauさんのチームに国立科学博物館の西海さんらと加わって、飯舘村で鳥のセンサスや昆虫の採集を行った。調査を実施した飯舘村の津島中学校の校庭は、持っていった線量計で通常の1600倍の放射線量、毎時80マイクロシーベルトを超える深刻な放射能汚染を被っていることがわかったが、私たちは皆とうに“繁殖年齢”を超えているので、「まあ、将来ガンになっても諦めるさ」という楽感的な(悲壮な?)雰囲気であった。


海外の研究者らとともに放射能の影響を調査
ついでフランスの原子力研究所のチームA. SternalskiさんとJ-M BONZOMさんらと一緒に、当時研究室のポスドク研究員だった松井君、笠原さんと、この地域の被曝した鳥類の残留放射能の調査も行った。この時はさすがに“繁殖年齢前”の若者もいたので、ちょっと気を使った。幸いにしてチェルノブイリのような炉心爆発ではなかったから、拡散した放射性物質は量的には少なく、鳥や生物への影響はすぐには出てこない。しかし汚染直後に収集した私たちのデータ(結果は学術誌に公表してある)はきっと将来的に大きな意味を持ってくるだろうと思う。
この時の調査結果を学術誌に公表
(ScienceDirect(英語)のホームページ)



フランスIRSNチームとの共同調査。環境省の捕獲許可を得た上で小鳥類への影響を調べる


巣箱を設置し、ヒナへの影響を調べる(右の写真はシジュウカラのヒナ)
原発はもうやめよう!
子どもの頃、原子力は安全で半永久的な夢のエネルギーであると宣伝されていた。原子力エンジンを搭載した鉄腕アトムのテーマソングを、みんなで歌ったものである。だが原発の安全神話はこの福島原発事故で崩壊した。地震列島、火山列島である日本列島に原発を立地させるという、そのこと自体が問題なのではないだろうか。さらに「津波さえ来なければ?」、「火山さえ噴火しなければ?」、原発事故は起こらないのだろうか。「日本の技術は優秀だから原発は100%安全」だとずっと言われ続けてきた。この安全神話を広めてきた責任を政府や電力会社は取ったのだろうか。
私たち日本野鳥の会は福島原発事故のすぐ後に、「原発は将来的にすべてなくす。世界的な脱原発社会を求める」という公式見解を発表している。この見解は今も変わっていない。柳生会長の時代に出されたこの見解を、私も踏襲したいと思う。
そして一人の科学者として言いたいのは、原発から出る放射性廃棄物をどうするのかについて、世界中のまだ誰も答えを見いだせていないということである。地中深く埋めても、プルトニウムの半減期は16000年もある。つまり16000年経っても、プルトニウムの分量は半分にしかならないのである。32000年経っても4分の1である。その時人類が存続していたとして、32000年前に埋められたプルトニウムの管理に誰が責任を果たせるのだろうか。
先日、2040年に向けて日本の新しいエネルギー基本計画が閣議決定された。そこからは前の基本計画で明言されていた「原発依存をできる限り低減する」と言う文言が削除されている。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」、まさにこのことわざ通り、電力会社、そして原発利権に群がってきた企業や政治家の原発再稼働・増設の大合唱が聞こえると思うのは私だけだろうか。
終わりに
ところで日本野鳥の会が創立されたのは昭和9年3月11日なのである。そう、まさに東日本大震災が起きたその日なのである。だから私たち日本野鳥の会はこの日をめでたく祝うことはできなくなってしまった。しかし日本野鳥の会はこの3月11日で91周年を迎えた。日本で最も歴史のある、そして国内最大の自然保護NGOである。私たちに負わされた責任は大きいと考える。
日本野鳥の会 理事長 遠藤孝一
タンチョウ再発見から100年記念フォーラムに参加して
鶴居村長から感謝状を受け取る
2月8日(土)、北海道・鶴居村にて、タンチョウ再発見から100年 記念フォーラム「タンチョウと共に生きる~鶴居村だからできる持続可能な取組を探る~」が開催され、参加してきました。
参加者が200名を超える盛会の中、俳優の杉田かおる氏(約45年前にこの地でロケが行われたテレビドラマ「池中玄太80キロ」で長女役を演じた)と環境省釧路自然環境事務所長の岡野隆弘氏による基調講演をはじめ、地元の中学校による学習発表、当会の原田チーフレンジャーを含む6名によるパネルディスカッション等が行われ、当会もタンチョウ保護に貢献した団体として、地域の保護関係者や団体と共に感謝状をいただきました。
タンチョウ再発見から100年を振り返る
ここで、タンチョウ再発見から100年の歩みを簡単に振り返ります。乱獲などで絶滅したと考えられていたタンチョウ10数羽が、釧路湿原の奥部で再発見されたのが1924年。その後、1935年に天然記念物、1952年には特別天然記念物に指定され、保護が講じられるようになりました。しかし、個体数が思うように増えない中、1952年の冬、猛吹雪の中で人里近くに現れてうずくまっているタンチョウ3羽を子どもたちが見つけ、先生らと一緒にトウモロコシなどで餌付けに成功。これをきっかけに各地で給餌活動が行われるようになり、地域の方々や関係者の献身的な保護活動の結果、北海道全体では2006年に生息数が1,000羽を超え、100年後の現在では1,900羽ほどになりました。
日本野鳥の会の活動
当会では、タンチョウ保護を進めるために1987年に鶴居村に「鶴居・伊藤タンチョウサンクチュアリ」を開設しました。そこは伊藤良孝氏が個人で給餌をしていた場所で、伊藤氏と協定を結ぶことでサンクチュアリとなり、伊藤氏が亡くなられた後も協定はご遺族に引き継がれサンチュアリとして継続しています。現在、冬期のタンチョウへの給餌活動のほか、生息する湿原の保全や調査、普及教育などさまざまな活動を行っています。
雪に覆われた鶴居・伊藤タンチョウサンクチュアリ
新たな課題とタンチョウ保護
保護が進み、生息数が増えたタンチョウですが、多くの個体が給餌場に集まることで、周辺では農作物への被害が増えたり、感染症罹患のリスクが大きくなったりと、新しい課題が出てきました。そこで、村では2018年に「鶴居村タンチョウと共生するむらづくり推進会議」を発足させ、保護のあり方、農業との共生、地域振興、地域住民のかかわりなどを官民一体となって検討しています。当会は、このような村の動きと連携しながら、これからもタンチョウ保護に尽くしてこられた多くの方々の思いを引き継ぎ、地域の方々や関係者の皆さんと協働してタンチョウ保護を進めていきます。
給餌場に集まるタンチョウとそれを見に集まった観光客やカメラマン