特集 カワウと人との共存をめざして
かつて個体数が激減し、絶滅までも心配されたカワウ。
しかし現在では数が回復し、逆に人のくらしとの間に摩擦が生じている。
カワウと人は共存できるだろうか・・・・・・。
今、立場を異にする人々が集い、その方法を模索し始めた。
この特集では、カワウと人とのかかわりや現状、
本会研究センター(現自然保護室)の取り組みを紹介し、
共存を考える一歩としたい。

カワウと人とのかかわり 文 石田 朗
カワウってどんな鳥?
 カワウはペリカン目ウ科に属する黒くて大型の水鳥で、くちばしの先から尾の先までだいたい80cmくらいである。日本で見られる4種類のウ類のうち、他の3種(ウミウ、ヒメウ、チシマウガラス)が外海で見られるのに対し、カワウは内湾や河川などが主な生活の場所である。日中は水中で魚を獲ったり、水辺で休息し、夜には、主に水辺の林の樹上に集団でねぐらを作る。また、繁殖も樹上に巣を作り集団で行う。水鳥なのに木にもとまれるように、彼らの足には水かきだけでなく、指に鋭い爪がついている。内陸の水辺環境をうまく利用しているカワウは、ユーラシア、オーストラリア、アフリカ、北アメリカなど世界中に広く分布している。

減っていた個体数が増えてきた
 このように内陸の水域を中心に生活をしているカワウだが、彼らほど劇的な個体数の変化を遂げてきた鳥もめずらしいのではないか。かつては、日本各地に生息していたと考えられていたものが、1970年代はじめにかけて、減少を続け、ついには全国で約3,000羽までに減ってしまった。この頃には営巣地も全国で、東京・上野の「不忍池」と愛知・知多半島の「鵜の山」の2か所しか確認されていない。原因は、狩猟圧、海岸の浅瀬の埋め立て、水質の悪化などと言われている。その後、個体数は回復に転じ、現在では再びほぼ全国で見られるようにまでなってきている。個体数も5万を超していると考えられる。最近は、内陸部への進出も見られるようになってきている。
 1970年代はじめに残った数少ないコロニー(集団営巣地)の一つである愛知県「鵜の山」でも、1970年代はじめにかけて生息す
 
図1
 
図2
る個体数は一度減少し、その後増加に転じている(図1)。鵜の山のカワウは1980年代後半から頭打ちになっているが、この頃から愛知県内では新たな場所での集団ねぐらや営巣が始まっており、その後これらが飽和状態になると再び新たな場所で営巣が始まるというパターンで営巣地が増えてきている。(図2)

カワウと人とのつながり「鵜の山」にみるカワウの歴史
 個体数の増加に伴い、河川や湖沼で魚を食べることにより起こる漁業被害、コロニーや集団ねぐらができた林で樹木が衰弱・枯死するという森林被害が各地で報告されるようになってきている。ただし、これらの問題は、今に始まったことではなく個体数が減少する以前の古くからあったようである。実際、前述の「鵜の山」のカワウははじめは少し離れた神社の森に生息していた。それが、木  
図3
を枯らすために村民に追われ、「鵜の山」に移ってきたという。1829年、江戸時代末期のことである。しかし、その後、村民は鵜のすむ木の下草や落葉の肥料効果が大きいことを知り、鵜を保護するとともに村で営巣地を管理し採糞(樹下に敷いた砂に糞をしみ込ませて採集)を行った。
  これを売却して得られた収益は公共の事業にも活用され、村の小学校(現上野間小学校)が建設されたというのは有名な話である。採糞や営巣地は、観光資源としての役割も果たし、多くの見物客が訪れた。また、カワウの吐き出した魚が家庭の食卓に上がることもあった。村民は、カワウの営巣地を保護し、弱った営巣木については伐採し、売却した後、植林をして植生の回復を図った。このように、「鵜の山」ではさまざまな形で人はカワウの営巣地を活用し、両者の共存共栄が成り立っていた(図3)。昭和30年代になると、化学肥料を用いた農業が主体となった。採糞は労力を伴うため顧みられなくなり、1958年ついに廃止された。山も管理されなくなり荒れた。
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地方によってカワウの扱いが違う!?
 ここに一つの興味深いデーターがある。図4は、ある全国版の新聞でカワウが増え始めた13年間に掲載されたカワウに関する記事の内容を、関東・関西・東海ごとに表したものである。関西では、ほとんどの記事がカワウによる樹木の枯死や魚の捕食の被害に関するものであった。ところが、関東や東海では、カワウの生活や生態そのものの記事
 
図4
が半数近くある。これら二つの地域には、それぞれ「不忍池」「鵜の山」というカワウが少なかった頃からのコロニーがある。また、前述の採糞や鵜飼いなど昔から鵜が人々の生活に深く関わる文化も見られる。カワウについて書かれる新聞記事の内容にもこれらのことが反映されているのではないか。東海地方の新聞には毎年、春になると決まって掲載される記事がある。「今年も鵜の山では、カワウの繁殖が始まりました。雛が巣から頭を覗かせてます」。カワウはこの地方では、春を告げる鳥の一つなのである。


カワウと共に生きるには
 採糞が行われなくなった「鵜の山」は現在どうなっているのだろうか?春先になると、なにやらごそごそと営巣地の中に立ち入る人たちがいる。実はワラビを獲っているのだ。これらの人たちは口をそろえて言う。「鵜の糞のせいか、ここはいいワラビがたくさん獲れる」。ワラの束を抱えた人もいる。地面に敷いたワラにカワウの糞をしみ込ませ、家庭菜園の肥料にするのだと言う。カメラを持ち、鵜を撮ろうとする人たちもいる。形こそ違うものの、ここでは今でもカワウとともに過ごす時間を大切にする多くの人たちがいる。 しかし、その一方で、カワウをやっかいだと思う人たちもいることも確かである。付近でミカンを育てる人の中には、果実に糞がついて困ると言う人もいる。池に魚釣りをしにきたある若者は、黒い鳥がみんな魚をさらっていってしまって全然釣れないとぼやいていた。三河湾沿岸でウナギなどの魚の養殖をしている人たちにとっては、知多の山から飛んで来る黒い鳥の群れはやはり脅威である。このような相反する感情を抱かせるカワウに関する問題の解決は容易ではないであろう。
 
写真
保渡田八幡塚古墳(5世紀末)出土の鵜飼い埴輪。鵜飼いを証明する国内最古の資料
(写真提供/かみつけの里博物館)

 最後に、「鵜の山」の近くで田畑を耕すおやじさんの話を紹介する。弱った営巣木を伐り売りし、その収入で村の衆と一杯やったと語る、採糞の時代を知る数少ない一人である。そのおやじさんが言った。「今のやつは、池の水が富栄養化して、稲をダメにするとか言うが、水路を長めにとって途中で余分な栄養をこしとるようにすれば、稲の生長をよくするはずだ」。鵜の糞が混ざった池の水は農業用に使えるのかという話をしていた時に出たこの言葉は、カワウに関わる問題を考えようとする私たちをハッとさせるともに、希望を与えてくれる。今の時代に即したカワウと人とが共存する世界、「現代版・鵜の山」を実現するために、私たちはまだまだ知恵の使い方が足りないのかもしれない。

(いしだ・あきら/愛知県林業センター)

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